このページ内の記事タイトルリスト
踊り、動きが生じるところ
踊り、動きが生じるところ。
なまくら体で生活している。
冬場なぞはコタツから出ない。生来動くのが億劫な性格。
そんな私でも舞台に身体さらして立つ。
なまくら体が表現する体になるところ。
耳を澄ましはじめる。
音を聴こうとするのではないが聞こえはじめる遠い音の
そのむこうを感じる。空間が聴こえてくる。
遠い古代や遠い未来が今ココに集結してくる。
体の内部も同時にソコに繋がり目を覚ます。
体の内部の古代や未来も一斉に集結する。
体内の最も小さな空間が想像できる最も大きな空間、宇宙の彼方へ繋がる。
ソコから動きは生じる。
目的も理由もなく、思考も感情も無い。
日常は即興性で成り立つけれど
私の日常のなまくら体は理由や目的や考えや感情がなければ動こうとしない。
舞が感情から湧くことがある。踊らずにはいられない思い。
それとも違う。
動きだしてから無意識のうちに閉じ込めていた思ひが感じられることがある。
それを私はそれを表出しない。
深いところにあるがまま遠くみつめ過ごす。
その人為なき静けさから
唯、自然な「つぎつぎとなりゆくいきほい」が生まれる。
光のような影 影のような光
識閾下のゲシュタルト認知を閾上に浮かばせることは如何にして可能か?
多細胞体が進化してくるまで当時の生物は死骸を残す自然死はなかった。
生命は物質に乗せられているが物質レベルの新陳代謝を速やかに重ねながら世代を越えて生き続ける。現存する生命はヒトでもバクテリアでも等しく30数億年のを経ており、これから先無限に続く可能性のある生の過程である。
総体で総体を捉える感覚
流動の中に我々の生はある
たとえ留まって見えようと
微細なもの、智慧の風
粗大なもの、行為の風
「微分された意識」
拡散と収束の同等性
新生『銀耳』
稽古会として始めた「銀耳の会」を母体に
2004年から偶然のように派生した
ダンスパフォーマンスユニット『銀耳』もすでに
活動3年目に入っています。
現在のメンバーは5名+α、さらに参加希望ダンサーも数名おります。
ますます多様な個性を存分に活かし、銀耳ならではのコダワリを
もっとコアに、もっと妖しく魅せてゆきたいと思っております。
先日の老舗MILKでの
銀耳ライブパフォーマンス映像を
短く編集できたのでYouTubeにupしました。9分57秒です。
このライヴでは、かなりアンダーグラウンド?な感じになりました。
ところで、
うるさく牛耳っていたワタクシ、ジョウマルガ(MargaJO)は
これ以降も『銀耳』の総責任者ではありますが
銀耳ライブ活動に関する表舞台から退きます。
次回のライヴ以降については
『銀耳(Ginmimi)』のライヴリーダーは銀耳ユキになります。
頑張ってます、ユキちゃんを応援してあげてね♪
★新生『銀耳』の次回ライヴ出演★10月14日(土)
「Club Cybernetics Code:15」 @渋谷Vuenos 開場/開演 16:00〜
前売り\2500 / 当日\3000
[Live]
ELECTric
AndroLaddie
BLACK LOVE FANTOM
BURST HEAD LOLLIPOP HONEY
Sredni Vashtar
Red Mecca Feat.銀耳 [DJ] SIN
[VJ] shrimp
■ご来場ありがとう〜終了しました
無伴奏の会
ここ暫らく
即興表現に関連するイベントが
諸々盛り上がりをみせているのを受けて
他ジャンルの方々とのライヴに勤しんできました
「零系臨界夜会」も席数の二倍にもなる多くの御客様に来て頂き
本邦における、隠された前駆の片鱗を提示できたのではないかと
自負しております
予てより、音楽や音を介しない「無伴奏即興」の踊りを
探求してゆきたいと思ってきましたが
最近やっと落ち着いて「再着手」できる情態になってきたように感じます
「無伴奏の会」を発足しました
約20万年前、歴史上にホモ・サピエンスが登場して以来
ほとんど変わっていないと思われる我々の体躯
それだけを礎に、現代文明の最なかで私達が表現しうること
部分を使うことに慣れた体のシステムを解いて、全体で在ること
既成の身体技術やメソッドを排してゆけば
何が明らかになってゆくのか
意識が沈み込めた微細な位相に気付くこと
小さな試みを積み重ねて、いつか成果を発表したいと目論んでいます
人体と踊り
踊りについて語るとき
「身体」という言葉より「人体」のほうがいい
と思いはじめた
猫や鳥のからだが、ときに羨ましくなることがある
天然に素晴らしくまるで無駄の無い動きと
その美しさに目を瞠ることも多い
私が共にあるのは
ヒトのからだ、であるということ
楽器から奏でらる音にとって
楽器は人体から発するものの媒体であるが
身体から奏でられる形姿の変容にとって
身体は媒体ではない
発せられる何モノか、受けとめられる何モノかがあるのは
生きた人体ゆえである、としんじる
生きている という積極さは
獲物を狙う獣の静性にも 天敵から逃れる小動物の動性にも
等しく感じられる
ただそこにある普段のからだから
生きている踊る人体への飛翔の試み
*
寝転んでいると 私にとって「天」は
地上から垂直の上方ではなく
この惑星と接線を為す空間の彼方
大地塊と私というモノは
引き合い ぶら下がりあって
伴に 空間に浮いている
生きている人体は まだ
飲み込まれておらず
少し距離をとって 跳ねている
畏怖と憧憬
以前から常々感じていた事なのだが
わが活動をダンスと云い即興舞踊と云いながら
ダンス自体に興味があるのかと省すれば
実は無いのかもしれないと革めて思う。
なぜ続けるのかと自らに問えば。
何の準備も無く人目に晒した此身一つで何ができるのか、
洗練された演舞技術でもなく
娯楽となる何かを提供する洒落た意図もなく。
嘗て、故も知らず
人為を超えて変容する時空に出遭った際の恐れと憧憬は
記憶に特異点として刻印されて。
そのように捲込まれ翻弄されるだけの個体としての存在を
心許なく感じたのかもしれないし
特異点との出逢いを待つことなく
自ら、飛び込みたかったのかもしれない。
始刻と終刻を提示された、制限ある生にも似た小さな単位時間に
地核に繋がれた質量を持って定められた箱の中で彷徨う時
縁を得て同時同処に集いた人々が
何を想いどのように生きてきたのか、どこへ往くのかも知らぬのだが
消費してゆく命の時間と堆積し埋もれてゆく記憶の一瞬に
特異な瞬間や特異な空間を共有できないだろうかと
恐らくそのような事を願っているのではないか
そしてそれが 即興という手法の中で為されたとしたら
考え抜かれた効果や構成で成されるよりも
個人の意図など超えた出逢いというだけきっと私は嬉しいのだと
だから何度も繰り返し、機会に挑みたいのだと
今は感じている
タゴール&ホログラフィ
現在、タゴールの詩集で出版されている邦訳は
ほとんどが易らかな現代日本語であるが
随分と昔に、どこからか抜き書きした
「To the guests that must go bid God- speed ・・・」
の訳メモだけが手元にある。雅文調で、 訳者は不明である。
其処に「即興」の本態ともとれる一文がある。
「行かざるを得ざる客には 別れの辞(コトバ)を述べて
其足跡を悉く掃ひ消せ。
微笑みて容易に単純に卑近なるものを胸に懐け。
今日は死する時を知らぬ幽霊の祝宴なり。
汝の笑ひは漣(サザナミ)の上に煌めく光の如く
唯無意味なる笑ひとなせ。
汝の生命(イノチ)は葉末の露の如く時間の端に軽く躍らせよ。
汝の琴よりは定まりなき瞬時の旋律を弾奏せよ。」タゴールはこうも詠む。
「吾が生命のあらゆる激音と亂(乱)調とは、一の美妙なる調和の中(ウチ)に冥合す・・・」 <三浦關造訳・東文堂書店>
調和、のうちに冥合、することを大詩人は切望した。
それを
「吾が心に理知の光を點(トモ)したる眞理なりと知ればなり。」 とした。
タゴールは1913年(大正2年)にノーベル賞を受賞。
突然だが、1971年にデニス・ガボー博士がホログラムの発見と開発でノーベル物理学賞を受賞した。
その後、量子物理学者D・ボームを始めとしてホログラフィ理論が提唱された。(この世界のあらゆる顕在は潜在に包され、あらゆる部分に全体構造が内包されている、というようなこと)
(ホログラムの説明は割愛するが、医学・心理学は元より思想・宗教・音楽と各界に様々な影響を及ぼした。)
D・ボームのキーワード、「内蔵秩序」
「我々が客観的現実だと思っているある物体を見るとき、
其れは目に見えない流れの中から抽出されたものの出現に過ぎない」 ベルグソン云うところの「直観」
タゴール云うところの「眞理」
ボーム云うところの「内蔵秩序」
・・・他にもいろいろありますが
あらゆるものの「母体」への肉迫はこうして為されてきた。
あらゆる顕前を創りだす母体への肉迫。
これを「即興者」もまた意識・無意識を問わず
切望しているのではないだろうか。
然して、如何に?